Kiosk

Kiosk

 

日本ではJR駅内の売店が“キオスク(キヨスク)“として長年愛されている。37年も前の話だが、アルゼンチンのブエノスアイレス駐在時に子供達をつれて近くのKIOSKでアイス、お菓子や新聞雑誌を買ったりしたことがある。店主は愛想よく振る舞ってくれた。

このサイトのKIOSKも同様に愛想の良い、奥宇治・和束町の農産品を土着の人間が目利きして展示、紹介するページです。テレビショッピングの様な莫大な広告費を使わず、正味で本物のMade in Kyoto, Made of Wazukaの産品だけをご紹介していきたい。願いは、国道筋の「道の駅」の様な実店舗こそないが、インターネットハイウェイ―・アクセスで町の情報、道案内や町民参加型のオープン物産販売スペースの一つになればと思っている。店開きには地域の自慢の産品のみ展示、BtoCで”山地直送の一級品を【地方創生・地域活性】コラボで準備しました。ご愛顧頂ければと願っています。

ビデオ

ビデオ

 

このサイトは元々、京都府南東部の和束町・笠置町や南山城村をテーマに「ひと・もの・こと」をお伝えできればと願いHP作りに至った。「少子高齢・過疎化」にチャレンジする三兄弟の町村の住民の“老人の冷や水サイト”に他ならない。若者は、新しい感性でドローンを飛ばし素晴らしい映像やシーンをFACEBOOKなど通じて配信しておられるのは心強い限りだ。ど田舎も情報発信にはハンデイーキャップのない時代だ。

熟年超えた白髪初老人でも時々立ち止まり、胸のスマホを取り出し暇つぶしにパチリ、パチリと綴った「ビデオ・メニュー」はいぶし銀感性のもので負けてはなるまい。老人の視点で故郷のトッピクスなども取り上げたい。

同窓・同期会・OBOG会や諸団体行事の想い出は写真を配るよりビデオの方が手っとり早い便利な時代だ。色んなシーンを三日坊主でなく何年か持続出来ればとの思いです。

(さらに…)

走馬灯

走馬灯

 

齢70も過ぎると最近の事をよく忘れるが、半比例して大昔の事は走馬灯のごとく脳裏に浮かんでくる。テレビや新聞のニュースを見聞きすると連鎖反応の様にひと昔の事さえ、カラーイメージで次々と現れる。が、この走馬灯も数年も経てばカラーから白黒画像、途切れ途切れイメージに消え薄れるのではないかと心配する今日この頃だ。

楽しかったこと、悲しかったこと、辛かったことなど生まれしこの方の記録画像がフェードアウトする前にサーバー上に残しておけば、“あなたの認知度問題あり!“と言われても誰かにアルバムとして見て貰えるのではとサイト・メニューに加えた。

昭和19年頃の話で母から聞いたことだが、山の茶畑で茶刈作業を作業中にB29戦闘機が飛んできて、機銃砲を受けたと言う話を子供の頃聞かされた。山と畑家しかない田舎になんで。。。と思ったが。従兄弟と畑の山、真鍮製の薬きょを拾って遊んだことが記憶にあるので、米軍は“面白半分で銃撃”したのであろう。7-8歳頃の記憶だがはっきり脳裏に残っている。茶畑だけでなく、田んぼで田植えをしていた時には、弾丸が田んぼの水をパチャパチャと水しぶきを上げたとも聞いた。(写真は70年後の山上の茶畑と田んぼ)

事 こと

物 もの

人 ひと

和束って

和束って

 

二年ほど前にHP原稿を書こうかな思っていた時の人口が四千三百人だったが、5月時点で4127人に減少している。中々、少子高齢化や過疎化に歯止めが掛からないのは全国の田舎は何処も同じだろう。

ちょっと嬉しいのは、町外から多くの若者が移住や起業をして下さっており、活気が出てきたように思う。

町には便利さも、お茶工場以外の煙突もない、天与の山紫水明、「日本で最も美しい村」連合に加盟、2016年には「日本遺産」の認定を受け、次の世界文化遺産登録への一歩との期待が大きい。

弥生時代に集落が形成された和束は、お茶の歴史街道のひとつ、お茶のパワースポットであり、堀忠雄町長さんが提唱される「緑泉」の町だ。四季折々の情報発信ができればと願っています。ジャンプ先→ → → 文化歴史→ → → 「和束町の歴史」

 

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新しい発見

新しい発見

 

2016年3月『和束(わづか)地域の歴史と文化遺産』と題する講演会があった。京都府立大学考古学の先生方と和束出身の京都学園大学バイオ環境学部、藤井孝夫教授(元・京都府・茶業研究所長)による和束の歴史や文化遺産の大変興味のある内容だった。就中、『和束茶業史』と題する講演は、私に何か ”琴線にふれる” 内容だった。それは、120年も前の1896年(明治29年)に和束茶が欧米に輸出されていたという事実をお教え頂いた。スライドの写真はドイツのロマンチック街道で見るような洋館は大正初期に当地区にそびえ立っていたそうで、先人達は時代の最先端を走っていたのだろう。

現在、病気になれば病院でレントゲンややCTのお世話になるが、X線は1895年にレントゲン博士が発見し、第一回ノーベル物理学賞の受賞となった。その翌年の1896年に日本で初めて島津源蔵翁がX線写真撮影に成功したが、同年に既に”和束茶が輸出”されていた。

”琴線にふれたのは”お茶”のことだけでなく、己の生業(現役時代の生き様)にも大いに関係している。京都の精密機器メーカーに入社、定年まで貿易一筋に携り、レントゲン装置の輸出に相当部分、携わっていた。レントゲン生誕百周年の時には欧州で記念展示会行事にも参加する機会があったが、製茶加工のスライド写真にある叔父は1986年に他界しが葬儀に帰国できなかった、、、
そんな回顧をしながら藤井教授のお話を聞き、故郷の先人達のパイオニア精神に感激し、HPの立ち上げの切っ掛けにもなった。