ミサイル

https://twitter.com/tanakas74今週は朝から晩まで、北朝鮮のミサイルTV番組が多かったが、ミサイルを経験した方は日本では殆どいないのでは?

どっかに仕舞い込み探していた古いパスポートが出てきたが1974年から2013年まで39年間の日記帳のようで認知症入口段階の人間には助かる。私は幸か不幸か、ミサイルを見聞した年月がパスポートのページに記録されており走馬灯のように当時を思い出すが、お茶の間TV番組よりは参考になるだろうと投稿です。

7月に亡くなった母や私は親父を戦争で失い、“戦争は二度”と経験したくないと思っていたが、何の“因果”か現役時代にフランスのエグゾセミサイル・北朝鮮テポドン・ロシアのミサイル、時系列ではイラン革命、フォークランド戦争、M19ゲリラ、イラン・イラク戦争、湾岸戦争、ユゴスラビア紛争、ボスニア戦争、リビア地中海空中戦、テルアビブ自爆テロ等を間近に見聞き体験した。

当方は、死の武器商人でもなく、ジャーナリストでもないが、メーカーの貿易マンとして何度も各国でその悲惨さを目の辺りにしてきた。 何ゆえにヤバイ現場に居合わせたかだが、戦後や紛争後の復興支援、特に医療・教育・人道支援、農業や環境などの日本の国際協力案件やコマーシャル案件の出張や駐在だった。家族に心配をかけ、危険を顧みず出かけたのも、今から思えば、崇高で遣り甲斐がいがあると勝手に思っていたのだろう。
イラン・イラク戦争も終わりの頃の1988年夏、イランに50日ほど滞在したが、テヘランのホテル滞在は西から飛来するミサイルを警戒し、何時も東側、低階部屋に滞在していた。飛来するのはイラクが使っていたロシア製ミサイルで市内には何発もの着弾跡、直径は10-15mぐらいだった。当時、イラク軍側は化学兵器も使用していた。今も現役の元同僚B君は出張時に数十発のミサイルに見舞われカスピ海に逃避させたこともあった。

一方、応戦するイラン側のミサイルは北朝鮮製の旧型テポドンだったといわれていた。 実は、イランの戦争相手国のイラクにも同僚4-5名がバグダッドに駐在、テポドンミサイルに怯えていた。イランとイラクに翌年行った当時のパスポート査証スタンプも見つけた。もしも、ミサイルがとんできたらと、、、、お茶の間TV解説あるが、現場で見た記憶は直径は計ってはいないが目測で直径15m、深さ4-5mだったろうと記憶する。88年7月10日ごろ、イランまで同行した技師に“ミサイル怖い“と戦闘前線地方への出張を断られ、仕方なくプロジェクト責任者なので技技系でない私が代役でテヘランからイラクに接する戦闘南端アバダンまで三菱パジェロジープで恐らく片道1000㎞ほど二日掛けて病院施設に数カ所立ち寄り、既納品の点検など、厚生省次官(副大臣)の運転で灼熱の砂漠を走ったが、途中で何カ所もミサイル着弾跡の現場を見た。

不発ミサイル弾頭が、何と病院待合室の灰皿に加工されていたのは滑稽だったが、不思議と何処でも要所を避けて着弾していた。即ち、道路の橋には着弾せず、端の手前や横に逸れていたのだが、武士の情けかアッラーの神のご加護か、ミサイル精度か、今も分からない。

恐ろしかったのは、砂漠の中、50-60台の消防車の様な特殊車列とすれ違ったが、聞けば“毒ガス中和剤の散布車”だったし、アバダンのホテルでは爆弾の地響きをなんども聞いた。病院はCT据え付け準備の監督だったが、技師でないので近くの戦争の傷跡や、何人もの戦死者や負傷者が運び担がれるのを見ていた。

その数日後の帰国前日(88年7月20日だった?)に国連安保理理事決議965号の停戦協定をイランが受諾しイライラ戦争が終わった。何故か、暇あればになったか次号で記したい。